医学

「宇宙医学研究による平衡機能科学に学ぶ学ぶ転倒予防」文献抄読

今回のテーマは「宇宙医学から学ぶロコモ予防」です。

最近、宇宙飛行士の野口聡一さんが5ヶ月間の宇宙滞在から帰ってきました。地上と宇宙での違いは決定的に違います。その違いをより詳しくまたそこから学べることを学んでいきましょう。

 

要約

ヒトが微小重力環境に滞在すると様々な生体変化がもたらされるが、平衡バランス機能の変化も大きい。

微小重力環境では内耳平衡器への重力入力がなくなるため、平衡バランスの統合に破綻をきたすとともに機能低下を生じることが知られている。

やがてヒトはその機能低下状態に適応するが、その状況はあたかも加齢の促成栽培に相当する。

そのような機能低下すなわち地上医学でいえば転倒リスクなどの危惧に対処するには、筋力の意地も肝要であるが同時に内側前庭脊髄路と外側前庭脊髄路の双方に負荷を与えて平衡バランス機能を維持・向上させる必要がある。

加齢とともにあたかも癌のように病態が悪化していく加齢性平衡バランス障害に対しては、たゆみない負荷対策を講じ続けることが必要である。

 

はじめに

人類が宇宙空間に滞在できるようなって久しい。

そのほとんどは地球周回低軌道上の宇宙船内の微小重力(マイクロG:μG)環境における滞在であり、惑星間のような無重力環境というわけではないが、それでもその異重力環境がヒトに及ぼす影響は大きなものである。

ヒトは地球上に誕生してこのかた、ずっと1Gという重力環境で過ごしてきた。

そして近年、スペースシャトルや国際宇宙ステーション(ISS)における微重力環境滞在による様々な生体変化が解析され、その変化と対応策を地球上の医学に活用しようという、いわゆる宇宙医学から地球医学への”スピンオフ”研究が注目されるようになってきた。

特に「宇宙は加齢の促成栽培」とも例えられるように、宇宙滞在はヒトの様々な生体機能に急速な機能低下をきたす側面がある。

本稿で解説する平衡機能もしかりである。

微小重力環境に突入して一旦は急激な機能変化をもたらされるものの、やがて微小重力環境に適応していく。

しかしながら地球帰還時には再びの1G重力負荷によって再突入症候群・帰還後症候群に悩まされることになる。

そしてそれら平衡機能変化への対応策が地上医学における転倒予防のヒントに用いられようとしている。

 

地球1G環境下における平衡機能バランス

地球上のヒトは1Gという重力環境下で生活している。

その平衡バランスを司る入力系は主に3つあり、三半規管と耳石器の内耳前庭入力、視覚入力、そして触圧覚や筋紡錘・関節角度も含めた体性感覚入力である。

それらの入力情報が脳幹・小脳などの前庭反射中枢でまとめられ、高次脳や辺縁系などの情動関与を経て、そして筋力の関与も経て各出力系へ出力される。

その出力先としては、主に動眼・頸部反射に関わる内側前庭脊髄路、姿勢・動作・歩行といった体幹から下肢にも関わる外側前庭脊髄路、骨格筋系、嘔気・嘔吐なども関わる自律神経系、さらには心循環・代謝系といった多様な方向性を持つ。

地球環境下では入力系への感覚情報の均衡によってヒトの平衡バランスは維持されている。

もし何らかの疾病や障害によって入力系のいずれかのファクターが妨げられると、バランスの均衡が崩れて平衡障害を生じ、すなわちふらつきやめまいといった出力系の諸症状をきたすことになる。

 

微小重力環境に曝露した際の平衡機能変化と宇宙酔い

ヒトが微重力環境に突入すると、何よりもまず内耳前庭への重力の入力がなくなる。

そのため他の入力系、すなわち視覚入力と体性感覚入力への依存度を上げて入力情報量の減少を補填しようとする。

しかし視覚自体も地上1G環境とは異なる身体軸との関わりで外界の景色を入力しており、体性感覚も触圧覚の低下や筋紡錘・関節角度などの伸長変化をきたしてしまっている。

要するに異重力環境に曝露された当初は、入力系の依存度をスイッチして補填しようとしても仕切れない状況に陥り、入力感覚統合の破綻をきたす。

そのため出力系では、例えば嘔気・嘔吐といった身体危険信号の警鐘をきたす。

この状況が急性器の宇宙酔いである。

しかしながらこの急性変化は微小重力環境の滞在が数日間を経ると身体システムが順応してき適応現象を見せるようになる。

宇宙酔いには多くの宇宙飛行士が罹患するが、そのほとんどは数日間で軽快する。

宇宙酔いにおいては地上で生じるような回転性めまいを生じることは稀で、しかもISS船内では歩行することもないので、いわゆるふらつきの自覚もない。

 

宇宙は加齢の促成栽培

ISSでの滞在が数日を経ると、宇宙酔いが軽快してくる。

微重力環境に平衡機能が適応してきたということである。

それはすなわち平衡バランスの入力系が1GからμGに慣れて順応した。

つまりdown-regulateされて平衡バランス機能が低下したということに他ならない。

平衡バランスの機能低下に加えて、筋力低下も生じるが、近年のISS内における飛行中トレーニングの成果で筋肉量と筋力の低下は以前ほど著しくは無くなった。

筆者がNASAジョンソン宇宙センターのNeuroscience laboratoryに留学勤務していた時代には、打ち上げ前には筋肉隆々だったアメリカやロシアの宇宙飛行士たちが6ヶ月のISS滞在を終えて地上に帰還した際には、極めてほっそりした女性のような大腿下肢になっていたものである。

では平衡機能自体はどのように機能低下を起こしているのか。

大きなものは前庭動眼反射における耳石器ならびに半規管特性の低下である。

耳石器と半規管における角速度と加速度のトルクが落ちるのだが、微重力環境での滞在が長くなると、視覚による推尺つまり距離感との適合が図られるようになるためにその低トルク状態で一気に地球に帰還してくると、帰還後の数日間は終始、家の中で家具や壁の曲がり角にぶつかったり洗面台に顔をぶつけたりといった推尺異常、dysmetriaをきたす。

ヒトは加齢変化で内耳の末梢平衡器すなわち三半規管や耳石器の有毛細胞の減少を生じる。

そのため平衡バランスも悪くなる。

微重力環境下でみられるヒトの平衡バランス機能の低下は、地球帰還後にはいずれ回復することから可逆的変化であり、有毛細胞数そのものが減少しているか否かは実証されていない。

しかし可逆的ではあるものの機能低下が生じていることから、宇宙医学における平衡機能低下への対応策が、地上医学の加齢性平衡障害への対応や転倒予防にスピンオフできる活路が考えられる。

例えば地上における平衡機能の加齢変化は立位姿勢の維持にも顕著にその低下をもたらしてくる。

内耳からの前庭神経系には脳幹前庭神経核を経て前庭動眼反射に関わる内側前庭脊髄路と、一方で腰部まで下降して体幹や下肢のバランスをも制御する外側前庭脊髄路がある。

高齢者のバランス機能低下の要因にはもちろん筋力低下もあるが、内耳の末梢平衡器の加齢に伴う細胞数減少と機能低下も関わる。

高齢者に多いふらつき系の平衡障害はつまづきや転倒に直結するため、特に高齢者には平衡バランス対策の普及が必要である。

地上医学へのスピンオフ〜転倒予防に向けての平衡機能科学的な取り組み〜

前項で述べたように、加齢に伴って内耳末梢平衡器の細胞数は減少し、姿勢制御機能が低下する。

細胞数が減少するということはすなわち重力や加速度の入力情報が減少することであり、微小重力環境に曝露した際の状況と類似している。

しかし異なるのは加齢性変化の場合は不可逆的な信仰変化である。

そのため、ある程度の年齢からはたゆまぬ努力による対策の継続が必要になるということである。

どの年齢からか、ということになる。

平衡バランス機能が顕著に低下してくる60歳ごろからといえよう。

個人によって日常生活や仕事における身体活動量やスポーツ習慣は大きく異なる。

逆にいえば、この日常生活とスポーツ習慣の積み重ねが60歳ごろを契機に大きく平衡バランス機能に個人差をもたらすということである。

日頃の身体活動量が少なく、スポーツ習慣のない人ほど、積極的に身体活動を行い、平衡器に加速度負荷を与えていないと、転倒の危惧が高まると言える。

内側前庭脊髄路の関与する前庭動眼反射に対して頭部・頸部の回転、上下運動で三半規管や耳石器に強制的に加速度負荷を与えることが重要である。

首振り体操を行っても良いし、何らかのスポーツを習慣づけても良い。

末梢内耳前庭に負荷をかけることでそれらの入力を統合する反射中枢である前庭神経核、脳幹や小脳の反射経路の賦活化も行われる。

一方で身体の姿勢全体を制御する外側前庭脊髄路の機能維持のためには、前述のように内耳抹消平衡器からの入力負荷に加えて下肢筋力と関節の柔軟性の維持も肝要である。

しゃがみ、立つといった単純な動きでも体幹・下肢の関節や体性感覚の維持向上に大きく役立ち、筋力の維持にも貢献する。

注意したいのは、日頃ウォーキングを行っている高齢者でも70歳を越える頃になると平衡バランス感覚が衰退してふらつきを訴えるようになる患者が多いことである。

つまり平衡バランス機能の維持のためには、楽しむ程度のウォーキングではなく、過負荷に値する頭部・頸部の運動と、筋力を含めた下肢運動が必要と考えられる。

過負荷を与えないと筋肉量が加齢とともに減少していくように、内耳前庭平衡機能にも体性感覚を担う柔軟性にもある程度の強度の負荷刺激が必要と考えられる。

もともと内耳末梢器に備わっている有毛細胞を構成しているのはアクチンとミオシンであることからも合理的である。

転倒予防に役立つ平衡系トレーニングは下記である。

内耳から前庭動眼反射系などへの平衡機能経路である内側前庭脊髄路を賦活化させる。

頸部運動と、腰部・下肢まで伸びる外側前庭脊髄路を賦活化させるメソッドとしてヨガのアーサナ(ポーズ)を用いている。

スクワットなどの強負荷運動は膝や腰の弱い高齢者には無理なことも多いので、静的な自重トレーニングであるヨガが効果的である。

何よりもこれら簡単なトレーニングメソッドを契機として、高齢者たち自身に平衡トレーニングの必要性を実感していただくことが重要である。

実感した高齢者たちはやがて、自分のライフスタイルにあったオリジナルなメソッドを自分たちなりに加えていくからである。